第2話:エトランゼ

「自ら醜聞を喧伝することで相手の男を引きずり下ろして得られるものが、たとえその内面に限られたものだろうと、果たしていったい何なのか、相手の男の成功で実は増幅された女の孤独ということなのか。物書きの私にもわかるようでよくわからない。」

石原慎太郎(作家)


留学を2週間後に控えたある日、バイト先の社員の方々が食事に連れていって下さった。ある社員には、なんで金持ちの息子のお前にメシを奢らにゃいけんのじゃ、などと冗談混じりにどやされはしたが、こんな会話も暫く出来なくなるのかと思うと淋しくもあった。僕は自分の家が金持ちだとは決して思っていないのだが、どうやらアルバイトの一員が、水野はお坊っちゃんで金持ちだ、などと社員に言い触らし、僕の父が所有する車の車種にまで言及していたらしい。つまり、水野は本来はアルバイトをする必要もないのだ、という論法らしい。誰がこんなことを触れ回っていたのか僕には大方想像できるが、よしんば僕の父が金持ちだとしても、父は詐欺やペテンで生計を立てているわけではないし、他人からとやかく言われる筋合いもありはしまい。

それにしても、ひとを貶めることでしか自らの地位を保全出来ないという人間の矮小さには、呆れるというよりはむしろ哀れな気持ちにさせられたものだ。そして行き着くところ、他人のものをむしり取ってしまえばいいという発想には、何とも言えぬ面妖さを感じずにはいられない。
上智大学教授の渡部昇一は、かつて雑誌の対談で「財のことを英語でグッズといいます。元来いいものだった筈の財を悪いものにした。そこにマルクスの悪い意味での天才があったんです」と看破していたものだが、戦後日本における「平等」なるものの概念が、所詮は共産主義の模倣ないしは縮小再生産でしかないということか。まあ、つまらないことでいちいち怒るのはやめにしておこう。どんなウワサが流れてどういう声があがろうと、ものごとを判断するのは己自身の意思なのだから。

そんな話はともかく、自分の都合で勝手にいなくなる僕のために、わざわざこんな席を設けて下さったかげには、社員たちが、自身の胸にしまっていたあるものを思い出しもしていたからであろう。僕には、自分がご馳走になることよりもむしろ、その気持ちの方が嬉しく思えた。

9月5日、いよいよ出発の日がやってきた。成田空港からブリュッセルまで直通する飛行機は、ベルギー国営航空(サベナ)しかなく、しかも便数が少ないので、スカンジナビア航空に乗ってストックホルムで乗り換えるルートを採ることにした。
成田空港第2ターミナルは近代的なビルだが、この空港に足を踏み入れるには、身分証明書の提示が義務づけられ、時には所持品検査まで行われる。そして、この空港から飛び立つには、1回あたり2000円余りの施設利用料(俗に言う空港税)を支払わなければならない。都心からうんと離れているうえ、滑走路が1本しかない空港に、である。どうしてこんなことになったのか。
それは、成田空港を建設する際に地元住民の反対運動が起こり、それに便乗した反政府ゲリラ組織がテロ事件をけしかけたからである。工事中の滑走路の一部には現在も私有地が残り、空港の工事は未完のままなのである。空港建設に反対したところで何をどうするつもりなのかという論拠やビジョンは全くなく、つまるところ、国家権力に対するその場限りの単なる反感によって、結局は莫大な国費がテロ対策に投じられ、そして大多数の国民が、不便きわまりない空港に馬鹿高い料金を払う羽目になったのだ。
他人の足を引っ張ることで加虐の快感を満足させようという手合いや、それによって、全く関係のない第三者までもが損害をこうむるという光景は、僕自身今までに何度も目のあたりにしてきたものだが、国際空港という、いわば国家の玄関にまでそれが及ぶという現実は、我々日本人の生きざまの投影ということになるのだろうか。

さて、前夜殆ど寝ていなかったこともあって、僕は飛行機ではひたすら眠っていた。ストックホルムのアーナンダ空港には定刻に着いた。
ブリュッセル行きが出るまでの2時間半、何もすることがないので免税店をひやかしてみることにした。日本にはない煙草や酒が売られている。僕は煙草を吸わないし、酒も好んで飲む質ではないが、土産ものにはなろうと思い、ひと通り買い揃えてレジに向かった。すると、店員が怪訝そうな顔をしてペラペラと喋りだした。もとよりスウェーデン語など分かる筈がないから無視していると、今度は英語で言ってきた。英語とて僕は満足に理解はしないのだが、どうやら未成年者には酒や煙草を売れないと言っていることが分かった。僕が黙してパスポートを提示すると、店員は破顔一笑、「あなた、15歳かと思ったわ。」

成田からのフライトで殆ど何も口にしてこなかった僕は、喉が渇いていた。しかし、空港の売店には見慣れぬ通貨単位が書かれており、それを何と読むのか、そしてそれが日本円でいくらになるのかも分からなかった。僕は一計を案じ、クレジットカードを手に"Do you accept?"と訊いてみたところ、店員はひと言、"Of course"。まるでテレビのコマーシャルのような光景だった。

ブリュッセル空港に降り立つと、ルーヴァン大学の2人の学生が僕を迎えに来てくれていた。ひとりはB君といい、もうひとりはE君という。B君は翌98年から上智大学に派遣されることが決まっており、それで出迎え役を仰せつかったとのこと。E君はB君の友達で、留学云々に興味はないものの、B君につきあってわざわざ来てくれたのであった。
彼らはまず、僕がフランス語をあやつるという事実に仰天したらしい。確かに、立場が逆だったら僕だってびっくりするに違いない。ともあれそのおかげで、初対面ではありながら、コミュニケーションはスムーズにいったものだった。

僕は迂闊にも、到着当日の宿についてまったく考えていなかった。もう日も暮れていたが、B君が大学近くにあるホテルを紹介してくれ、事なきを得た。どうも僕の人生は、こうした幸運に支えられている場面が往々にしてあるようだ。B君らには今後とも世話になることになるが、それについては追って記すこともあるだろう。

留学初日はこうして、怒涛の如く過ぎていった。