第7話:セミ・スイート

「聞かないでくれよ。僕にだって訳が分からないんだから。」
ジョン・ワトソン(アイルランド人)


授業が始まった。楽しい授業あり、つまらない授業あり。毎度のことだ。
毎度のことといえば、あのお喋りも然り。今年度からある女性の先生の苗字が変わり、その理由を巡って様々な憶測がなされているようだった。

学生A:「ねえねえ、サナエちゃんってさぁ…」
学生B:「そうそう、どうして苗字変わったの?」
学生C:「どうしてだろー?」
学生A:「やっぱ離婚かな?」
学生B:「でも、この前見たら薬指に指輪してたよー。」
学生C:「じゃあどうして?」」
学生B:「もう次のオトコ見つけたのよぉ」
学生A:「キャーッ、そうかもそうかもぉー。」

実際のところ僕も改姓の理由は知らずにいたが、その先生が上智大学の専任になられたことで、それを機に旧姓で仕事をするようになったのだというウワサ話を後になって聞いた。ちなみに、あの会話は全て授業中に交わされたものである。

ところで、僕が去年からアルバイトを始めたことについては以前述べた。が、今年度になって思わぬ障害が持ち上がった。あのアルバイトは午後をまるまる拘束されるのだが、授業が全ての曜日の午後に入ってしまったのである。折角始めたばかりのバイトを辞めてしまうのはもったいないな、と思っていたら、サークルの先輩であるNさんから、思わぬ解決策がもたらされた。
僕の授業が終わる15時まで、他の先輩が代わりに働いてくれるというのだ。もちろん、バイト代は半分になってしまうけれど、そんなことは問題ではなかった。とにかく働けてうれしかったのである。

代わりに働いてくれることになったのは、Kさんというひとだった。KさんはNさんの友達で、同じサークルではなかったが、今までもアルバイトを手伝ってくれていて、今回も僕のためにわざわざ変則的な勤務を引き受けてくれたのだった。Kさんとの面識がなかった僕は当初、いささか不安でもあった。というのも僕は、初対面の人、とりわけ女性と接するのがひどく下手なのだ。しかし、Kさんは学科こそ違うが僕と同じ学部だし、共通の知人がいることも分かって、実際にバイト先で会ってみるとすぐに打ち解けて話が出来るようになった。不安は消え去った。
ところで、僕はひとに何かしてもらうと、よく「スイマセン」というクセがあった。その言い方があまりに可笑しかったからだろうか、ある日Kさんは僕のマネをして「スイマセン」と言っておどけて見せた。
僕はKさんの予期せぬ反応に驚いたが、その時、ふだん彼女が「ありがとう」と言っていたことに気がついた。そうだ、感謝の気持ちは「スイマセン」ではないのだ。Kさんはそのことをさりげなく教えてくれていたのかな、と思った。

別のある日のこと。
僕は、この夏フランスを旅行する計画を立てていた。それを話すとKさんは、
「ふーん、フランスかー。私も行ってみたいなぁ、南仏とか。」
「でもね、うちの親は反対するんですよ。」
「どうして?」
「自分の息子を一人旅になんて出したくないんですよ。」
「へえ。水野クンって、家族から大事にされてるんだねぇ。」

このKさんの反応に、僕はビックリした。今まで、学科でこういう話をすれば決まって、
「水野クンっちって過保護なんだねー。」と、バカにするような返事しか聞かなかったからである。

Kさんの何とも言われぬやさしさに、僕は密かにうれしくなっていた。