第8話:それはちょっと

「強がり言ってるけど、本当は怖いんだよ。だから一生懸命練習するんだ。怖くなかったらそんなことしないよ。」
星野一義(会社役員)


ある日、フランス語の授業で、新聞記事を読んでそれに対する自分の意見を言い合おうというものがあった。その新聞の見出しには、"La loi anti-dumping"(反ダンピング法)と書かれていた。東南アジア産の廉価な自転車の輸入規制が話題になっていた。
数人のグループごとにディスカッションをするのだが、そのうちあるグループから、こんな声があがってきた。
「ねえねえ。『ダンピング』ってなーにー?」

1年前の「佐川くん」を彷彿とさせるような情況だった。ダンピング。それは、独占禁止法で言う「不当廉売」のことである。またケリなど入れられてはたまらないから、僕はこの時、努めてポーカーフェイスを装っていたが、内心穏やかではなかった。この単語を中学生の頃から知っていたというだけでなく、ちょうどこの頃、NTTの機材納入の落札を巡って「1円」という強烈なダンピングを嗾けた企業があり、そのことが新聞紙面を賑わせていたからである。前にも述べたが、僕は人の無知を嘲笑おうというのではない。ただ、どうしても首を傾げたくなるのは、学校で教えてもらうことだけが勉強だと思いこんで、ひたすら口を開けて餌を待つ小鳥のように答えを待つ姿勢である。身近なところに、いくらでも答えはある筈なのに。
暫くすると、さらに僕を驚かせるような光景が展開された。彼女たちは、仏和辞典で"anti-dumping"という言葉をさがそうとし始めたのである。その努力は買うべきなのかも知れないが、僕は唖然とするよりほかなかった。
彼女たちの多くは既に企業から内定をもらい、来年(1998年)から就職するはずだが、上司になる人達は、眉に唾をたっぷり塗っておく必要があるだろう。

さて……
ある日、僕は学科のある先輩と帰り道が一緒になった。道すがら、その先輩はこんなことを言ってきた。
「水野クンは昔からフランス語やってきてて、そんなに出来るのに、何で大学でもフラ語やろうなんて思ったの?」
予期せぬ質問に僕はちょっぴり驚いたが、"むかしフランス語を習ってたことがある人"にはなりたくなかった、というようなことを言ってその場はお茶を濁した。

しかし、家に帰ってみてふと考えた。何で僕はフランス語を勉強しているのだろうか、と。

ずっとフランス語をやってきた。受験もフランス語でやった。仏語検定は準1級までいった。確かにフランス人の友達は出来たし、通訳や翻訳のアルバイトでかなりおいしい思いもしている。しかし、その先にあるべきものが、未だに見えてこないのだ。

悔しいことに、あの先輩の問いかけに正面から答えられるような根拠を、僕はまだ見つけていないのであった。