第3話:フランスについた日

「人々と強い絆を結ぶことは私にとって非常に困難なことだし、多分その逆も言えるでしょうね。」

ジョン・バーナード(イギリス人)


「…あのねー、あそこのワイン屋に行って買ってきておいて欲しいんだよ。うん、そう、あれを。じゃ、宜しく。」
Iさんの、早口のフランス語でパリ支店のスタッフと会話しているのが聞こえてきた。

2002年、海外出張でモロッコに来ていた。何年も前に駐在員が引き揚げた後、解決しないままになっていた案件のいわば敗戦処理のために、フランス語の分かるこの僕が現地入りを命じられたのである。ただ、若手1人では心配であったのだろう、やはりフランス語を解する英国駐在員のI氏が同行してくれることになった。
4日間の現地滞在を経て、懸案事項は解決をみることになったが、その過程で僕はちょっとしたミスをやらかした。そのことで、Iさんは烈火の如く僕を怒鳴り散らし、僕は当然悔しい思いをした。Iさんの厳しさは、東京では一種の伝説となっていて、ある先輩はIさんの課に配属になった初日に3時間問い詰められたともいうが、我が身に直接降りかかる味は格別であった。

滞在中、深酒してホテルに戻った翌朝、ホテルのロビーでソファーに座るIさんのうしろ姿が見えた。
「い、いや、だ、だから昨日は遅くなったから電話できなかったんだよ…」
携帯で会話している相手はロンドンのご家族らしかった。鬼上司も奥さんには頭が上がらないんだな、とI氏のことを可愛らしく思ってしまったりもした。

ともあれ、この日の午後、我々はパリに向かって発つことになっていた。そしてIさんはかねて見知りの現地スタッフに買い物を頼んでいるようだった。僕は僕で、
(フランスでワインの買い物か。いいご身分だな)
内心思ってもいたが、口に出せる筈もなく黙っていた。

その日の晩、パリのレストランでI氏と夕食を共にした。翌朝、Iさんはロンドンに帰り、僕はアルジェリアに向かう。ほんの数日間ではあったが、大ベテランが現場で魅せる仕事ぶりは、若い僕にとっては物凄い刺戟になった。

別れ際、やおら紙袋を取り出したI氏はかすかに笑みを浮かべながら、
「年末に、君から結婚の報告を貰ってたけど何もしてなかったから…」
ワインオープナーが入っていた。ワイン屋のおつかいとは、このためだったのだ。

直属の部長や課長にもお祝いなど貰いはしなかったのに、9,000キロも離れたところで、この僕に関心を持ってくれる人が確かにいた。僕は先の浅慮を恥じつつ、心の中に、言葉にならない気持ちが湧いてくるのを感じていた。
早く一人前になって、しっかり仕事をすることが最大の恩返しなんだと言う人もいるだろうが、この僕がIさんにこの気持ちをお返しすることなんぞは出来っこない。
では、自分に出来ることは何なのか。自分がしなければならないことは何なのか。自分以外の人にこの想いを、この気持ちをどうやったら伝えてゆけるのか。そのことを、ホテルに向かうタクシーの中で、僕は何度も何度も考えていた。