第0話:9月9日

「この年でもうひとつ忘れられないのは、誰もがいつかは経験するように身近に死を経験したということです。それまで私にとって死は観念的なもので、新聞で読む数行であらわされるものでしかありませんでした。」

アラン・プロスト(フランス人)


平成9年8月、僕は夏休みを利用してフランス一周の旅に出かけていた。あてもない一人旅だったが、幸いなことに言葉には不自由せず、天候にも恵まれて楽しい旅行になった。

帰国してからの僕は、やることもなく時差ボケに身を任せる毎日であった。昼に眠気が襲い、明け方に妙な空腹感を覚えて起きてしまう。そんなことが続いていた9月9日のこと。
夕食を取り、なにもせず自室のベッドにねそべっていると、母が僕に電話だという。電話の主は、サークルの先輩F氏であった。
「あ、あのね…」
F氏の声は妙に落ちつきがなかったが、いつものことと言えばその通りでもあった。
「さっき日テレのニュースでね」
「えっ?」
予想もしない話題に、虚を突かれる思いだった。
「Kさんがね…….」
「ちょっと待ってくださいよ。僕、全然ニュース見てないから、分からないです。」
電話を切ると同時に時計を見た。9時5分前。胸騒ぎがする。気が気でない。居間に行ってNHKをつけた。

ニュースが始まった。キャスターはいつもと変わらぬ様子で原稿を読み上げている。そして確かに、スクリーンからは上智大学の女子学生が殺害されたというニュースが流し出されていた。被害者は、Kさんと同姓同名だった。

Kさんはこの夏から留学すると言っていた。出発は、9月11日だと。
動揺する気持ちを抑えようと僕は必死になっていた。
何とか冷静にならなければと思いつつも、テレビの前のソファーから立ち上がることすらままならなかった。体がガクガクと震えだし、全身の力が抜けていくのを感じていた。