第1話:あの日あの場所で

「人の運命を決めるものが何かはしょせん不可知だが、思い返してみると誰にとってもその人生を左右したような分岐点が幾つかはあるものだ。ある場合それは愛した相手だったり、選んだ友人であったり、あるいは職を得た場所であったり、そこでの上司や同僚たちであったりもするだろう。」

石原慎太郎(作家)


大学生になって最初の冬のある日、サークルの部室に行くと、4年生のSという先輩がいた。彼女は僕を認めるや
「水野クンはお坊っちゃんだから、アルバイトなんてしないわよねえ?」
言ってきた。この姉御一流の表現だが、要はアルバイトをしないかということだった。OBの斡旋でサークルに任されているアルバイトが存在することは知っていたが、そのお鉢が若輩者の僕に回ってくるとは思いもしなかった。
家庭教師をしていたほかはこれといったアルバイトをしていなかったし、幸い時間帯も合ったので僕はこの誘いに乗ることにした。アルバイト先の会社は、広島に本社をもつR放送というテレビ局の東京支社とのことであった。

1週間ほどのち、上級生たちがアルバイトに関するミーティングを開くことになった。僕も陪席して話を聞いていたが、何よりも驚かされたのは彼らの仕事に対する意識の高さであった。現在の仕事についての話から、今後のアルバイトのあり方まで、彼らは真剣そのものの表情で議論していた。とりわけ、これから部員が少なくなる中でどうやって人員確保すべきかについては甲論乙駁となり、将来のために外部の人間を加えるべきという声もあったが、折角サークルに任されてきたのだから出来る限りサークル内でやっていこうという結論を見た。
それから暫くして、僕は実際にR放送で働くことになった。平成7年(1995年)12月のことである。会社は、銀座の昭和通りに面した雑居ビルにあって、1階には証券会社の支店がある。ビルに入り、恐る恐るエレベータに乗る。5階に着くと、ワンフロアぶち抜きのオフィスがそこにはあった。

雇い主であるY氏にお会いすると、一通りの挨拶の後、やおら50円玉を差し出して曰く、
「ま、これでジュースでも飲んでてくれ。」
このオフィスの自販機ではジュースが半額で買えることなど、新入りに分かる筈もなく、僕はただ困惑するばかりであった。

放送局とは言ってもアルバイトの仕事は事務と雑用に限られていて、その主なものは在京のテレビ局や広告代理店から送られてくるビデオ・テープを仕分けして広島の本社に送ることである。また、R放送はラジオ局でもあるから、こちらはビデオの代わりにオープンリール型のオーディオ・テープになる。
単純な作業ではあるが、一歩間違えればスポンサー契約した企業のコマーシャルが流れなくなったり、広島地区で「水戸黄門」が見られなくなるなどという可能性もあるわけで、緊張感を伴うことも確かだ。
このほかに、取引先や本社からかかってくる電話の取り次ぎもアルバイトの仕事である。敬語の使い方をはじめとするマナーを心得ていないと、社外に恥をさらすことになる。

もちろん、新米のアルバイトが全てを上手くこなせる筈もなく、はじめのうちは失敗の連続であったし、社員たちは新人にも容赦なかった。社員にしてみれば、4年生だろうが1年生だろうが同じお金を払って雇っていることに変わりはなく、僕にも先輩と同じ仕事ぶりを要求するのはむしろ当然のことと言えた。

僕は毎週のように社員にどやされながら、先輩たちがなぜあれほど真剣になっていたのかを理解し始めていた。